東北唯一の現存天守は、江戸時代後期に建造されました。豊かな水をたたえる外濠、そして、その内側に巡らせた土塁は、東日本に多い古い城郭の特徴です。桜の季節、そして雪景色の最北端の現存天守の弘前城をご堪能ください。。
弘前城(ひろさきじょう)は
青森県弘前市にあった日本の城で、別名を鷹岡城、高岡城と言います。江戸時代に建造された天守や櫓などが現存している12天守の一つです。
国の重要文化財に指定され、城跡は国の史跡に指定されており、日本100名城No.3(日本城郭協会)に選定されています。
弘前城の主な沿革
弘前城は、弘前藩(津軽氏4万7千石)の居城として津軽地方の政治経済の中心地となりました。
最初の天守は、2代藩主の津軽信枚(つがる のぶひら)により1609年(慶長14年)頃に本丸南西隅に建てられた5重の建物で、東北地方では若松城天守に次ぐもだと言われています。
しかし、1627年(寛永4年)9月の落雷で出火して天守内部の火薬に引火して大爆発を起こし本丸御殿や諸櫓とともに焼失しました。天守は再建されることなく、今でも天守台を支えていた石垣は本丸南西隅にそびえています。
本丸で唯一の現存の天守は、層塔型3重3階の建物です。現在は独立式ですが、当時は北側に多聞櫓を付属した複合式の天守でした。
この天守は、1627年(寛永4年)大爆発して焼失した5重天守の代用として、ロシア船の津軽海峡往来などの非常事態に対処するため、幕府の許しを得て本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として建てられました。
1810年(文化7年)着工し1811年(文化8年)に竣工しました。その当時は、幕府への配慮から天守ではなく、櫓(御三階櫓)として扱われていましたが、事実上は天守としての役割を果たしていました。
昭和24年(1949年)に松前城天守(北海道)が焼失したため、現在は最も北に位置する現存天守になっています。
弘前城の縄張
城郭は、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成され、本丸を二の丸が囲み、さらにその外を三の丸で囲む梯郭式の平山城です。
当初の弘前城の規模は、東西612メートル、南北947メートル、総面積38万5200平方メートルに及びました。
現在は堀、石垣、土塁等などが現存しています。平成になって天守台石垣の四隅からイカの形をした石垣が発掘され、「いかすみ石」と名付けられました。
二の丸の現存の櫓は、3層の辰巳櫓(たつみやぐら)、丑寅櫓(うしとらやぐら)、申櫓(ひつじさるやぐら)の3棟です。
門は、三の丸の追手門と東門、二の丸の南門と東門、北の郭北門(亀甲門)の5棟が築城当時の姿で現存しています。この他に二の丸の東門与力番所が移築、復元されています。現在は5棟の城門が残されていますが、築城当初は10棟の城門があったと言われています。
外郭の南西に位置する禅林街(ぜんりんがい)は、長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)として、出城(でじろ)の役割を果たしており堀や土塁、枡形などが残っています。
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弘前城の所在地
〒036-8356 青森県弘前市下白銀町1
弘前城へのアクセス
公共交通:JR弘前駅→市内循環100円バスで20分、バス停:市役所前公園入口下車、徒歩10分
車:東北道大鰐弘前ICから国道7号、県道260号経由40分
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