列強の北信濃支配の拠点になった海津城が元になった城です。武田が築き、上杉と争い、織田が奪い、豊臣が領し、徳川親藩や譜代が治めた城です。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/3925430_s.jpg)
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/22237917_s.jpg)
最後には旧武田家臣で後に徳川家康の家臣となった真田家(真田信之)の城として幕末を迎えました。同じ長野県の上田城と関わりのある城です。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/22113543_s.jpg)
またこの城は、江戸時代末期に松代藩士、兵学者の佐久間象山を輩出したことでも有名です。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/24001389_s-1.jpg)
松代城(まつしろじょう)は
長野県長野市松代町ある日本の城跡です。戦国時代は海津城(かいづじょう)と呼ばれていました。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/IMG_1910-1024x1024.jpg)
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/IMG_1904-1024x1024.jpg)
松代城の元になった海図城は、戦国最強を謳われた甲斐の武田氏の戦略・戦術などを記した軍学書 『甲陽軍鑑』によれば、武田信玄の命で軍師の山本勘助が築城して2年後完成したと記されていますが、築城時期については定かではありません。日本100名城No.26に選定されています。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/726330_s.jpg)
松代城の主な沿革
戦国時代には、甲斐の武田信玄が信濃への侵攻を開始し、北信豪族を庇護した越後の上杉謙信との川中島の戦いへと発展する。北信濃の支配をめぐって足かけ12年間で 5回にわたり衝突しました。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/442671_s.jpg)
その中で最大の激戦だった1561年の第4次合戦(八幡原の戦い)においては、この海津城の存在が発端となったと言われています。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/738963_s.jpg)
この第4次合戦、さらに3年後の第5 次合戦でも勝負がつかず、この戦いは両軍痛み分けという形で幕を下ろしました。本城には小山田虎満(備中守)、二曲輪に市川等長・原与惣左衛門が配置されたということです。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/22237711_s.jpg)
1582年の武田氏滅亡後には、武田遺領のうち信濃川中島四郡を支配した織田氏家臣の森長可の居城となります。同年には本能寺の変が起こり、森長可は信濃を放棄して美濃へと退却し海津城も無人のまま捨て置かれました。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/1125684_s.jpg)
以後は信濃へと侵入した上杉氏の支配となったが、1598年(慶長3年)に上杉景勝が会津に転出の後は豊臣秀吉の蔵入地となり、城主には田丸直昌が任じられました。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/1125686_s.jpg)
甲州流築城術の特徴を強く持っており、千曲川を背後にして本曲輪を三方から二の曲輪が囲んでいる甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有しています。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/2247145_s.jpg)
江戸時代になると、1600年に田丸直昌4万石と領地を交換する形で森忠政が13万7500石で入封し、同時に豊臣家の蔵入地9万石は廃止されました。
この時、海津城から待城(まつしろ)へと改名されています。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/1125689_s.jpg)
1603年森忠政は津山藩18万6500石へと加増転封されましたので、松平忠輝が14万石で入封しました。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/418887_s.jpg)
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/4998087_s.jpg)
忠輝は加増されて越後高田藩主75万石となりますが、旧領も引き続き領有したため、家老花井吉成が城代として統治して領内の整備に尽力しました。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/3539199_s.jpg)
1616年に松平忠輝は改易され、代わって松平忠昌が12万石で入りました。
この忠昌領主時代に待城から松城へと改名されました。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/3925425_s-1.jpg)
1619年、松平忠昌、越後高田25万9000石へ転封され、酒井忠勝10万石が入封しました。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/3925429_s-1.jpg)
1622年、酒井忠勝が出羽国庄内藩13万8千石に転封され、真田信之(真田幸村の兄)が13万石で入城しました。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/4466471_s.jpg)
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/4767040_s.jpg)
以後、真田氏の居城となり松代藩の藩庁として明治維新に至りました。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/1259811_s-1.jpg)
1872年に廃城となり、1873年(明治6年)火災により再び花の丸御殿を焼失してしまいました。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/4466467_s.jpg)
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/4767041_s.jpg)
北西に天守台がありますが、天守相当の櫓は近世初頭には失われたようで本丸には幕末まで四隅に二重櫓が立っていました。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/22113543_s.jpg)
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/4998085_s.jpg)
2004年、太鼓門をはじめ堀、石垣、土塁などが復元されています。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/3925441_s.jpg)
松代城の縄張
松代城は千曲川を東の外濠にしており、その千曲川より水を堀に取り込んでいます。全体的には輪郭式の縄張で中心の本郭は石垣造りと成っている平城です。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/nawabri-3.jpg)
本丸、内堀より中は、総石垣で囲われ1770年に花の丸御殿が造られるまで本丸御殿が置かれていました。櫓門は3カ所(北不明門、東不明門、太鼓門)てあり、櫓はいずれも二重で4カ所にありました。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/98230be68c3e6ffefb4e6f7514502106-1.jpg)
二の丸東側の区域には1759年(宝暦9年)まで二の丸御殿が置かれ、その後、土蔵が建てられています。西側の区域には石造りの煙硝蔵が建てられていた模様です。門は西不明門と石場門、そして南門がありました。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/5049595_s-1.jpg)
三の丸は、三日月堀の外の曲輪で材木小屋や屋根師などの作業所、物置、武具奉行役所が置かれていました。東側に大御門(大手門)が置かれていました。
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/5049594_s-1.jpg)
花の丸は三の丸の西側にあり、茶屋や草木が植えられ、藩主の遊園地として機能していましたが、1770年に花の丸御殿が建てられています。幕末まで藩の政庁及び藩主の住居が置かれていました。
松代城の関連uyetube動画はこちら
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/4998091_s.jpg)
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/5049594_s.jpg)
松代城の所在地
長野県長野市松代町松代44
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/01/IMG_1908-1024x1024.jpg)
松代城へのアクセス
【しなの鉄道】
しなの鉄道線屋代駅から長電バス屋代須坂線「須坂駅行き」「松代高校行き」「松代駅行き」で約30分「松代駅」下車、徒歩約5分。
【長野電鉄】
長野線須坂駅から長電バス屋代須坂線「屋代駅行き」「松代高校行き」「松代駅行き」で約50分「松代駅」下車、徒歩約5分。
【J R】
長野駅から川中島バス「松代行き」約30分、「松代」バス停下車、徒歩約5分
松代城周辺の地図はこちら
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/IMG_0404_20170825161223-768x1024.jpg)
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/IMG_0405_20170825161254-768x1024.jpg)
松代城への旅の計画を立てましょう‼
![](https://www14.a8.net/0.gif?a8mat=3HOWQ8+CQFTCQ+3ZO8+601S1)
![](https://www19.a8.net/0.gif?a8mat=3HOWQ8+BYGFX6+4D9Y+5ZMCH)
![](https://www14.a8.net/0.gif?a8mat=3HOWQ8+BQPT22+35UM+60WN5)
![](https://www18.a8.net/0.gif?a8mat=3HOWQ8+9WMOWQ+2ZZI+661TT)
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/IMG_1897-1024x1024.jpg)
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/IMG_1899-1024x1024.jpg)
松代城の関連商品はこちら
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/22218833_s.jpg)
![](https://sarrno175.sakura.ne.jp/egc09254/wp-content/uploads/2022/09/22241318_s.jpg)
コメント