会津若松城の前身は、蘆名直盛(あしななおもり)が今から約640年ほど前に築いた黒川城がはじまりだと言われています。
幕末の戊辰戦争では、約1ヶ月の激しい攻防戦にも耐えた名城としても有名ですが、赤瓦の美しいこの城は日本100名城No.12に選定されています。
会津若松城(わかまつじょう)は
福島県会津若松市にある城です。地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と親しまれていますが、同名の城が他にあることから、地元以外では会津若松城と呼ばれるのが一般的です。
平成12年に天守に続く建物として「干飯櫓と南走長屋」が江戸時代の工法や技術で復元されました。
また、平成23年には、「赤瓦」へのふき替えがなされ幕末当時の姿を再現してあります。現存する天守閣では国内で唯一の赤瓦天守です。
会津若松城の主な沿革
1589年、蘆名氏と戦いを繰り返していた伊達政宗は、豊臣秀吉の制止を無視し蘆名義広を攻め黒川城を手にしましたが、1590年には秀吉に臣従して会津を召し上げられました。
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷(がもううじさと)です。
氏郷は、1592年からこの城を近世の城郭に改造して城下町を整備して、町の名前を「黒川」から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張の城に造りかえていきました。
なお「若松」の名は、蒲生氏の氏神である馬見岡綿向神社の参道周辺にあった「若松の杜」に由来しています。
1593年、望楼型7重の天守が竣工して名前が「鶴ヶ城」に改められました。近年の発掘調査では蒲生時代の石垣の基底部が確認されており、鐙瓦(軒丸瓦)や宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土しています。
1598年、氏郷の子の秀行は、お家騒動で92万石から18万石に格下になり下野の宇都宮に移封されました。その代わりに越後の春日山より上杉景勝が120万石で入封しました。
1600年、徳川家康は、関ヶ原の戦いで西軍に加担した上杉景勝を30万石に下げて、出羽の米沢に移封しました。
翌年の1601年には蒲生秀行が再び入城しましたが、1627年、嫡男の忠郷に嗣子がなく亡くなったため、秀行の次男の忠知が後嗣となり伊予の松山に移封されました。
代わって伊予の松山より加藤嘉明が入封して、その子の明成は西出丸や北出丸などの造築を行いました。
1611年には、その頃起こった会津地震によって倒壊した天守を現在の層塔型天守に組みなおさせています。
1643年、加藤明成は改易され、出羽の山形から3代将軍徳川家光の庶弟、保科正之が23万石で入封しました。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となっています。
1868年、戊辰戦争の戦闘の一つである会津城籠城戦では、会津藩士がたてこもった鶴ヶ城は新政府軍によって包囲され砲撃を受けました。1か月後、板垣退助からの降伏勧告を受諾して開城しています。
会津若松城の縄張
会津若松城は梯郭式の平山城です。本丸を中心に西出丸と北出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置されています。
城が位置する台地の西の端に主郭があり、内堀を隔てて東側に二ノ丸、三ノ丸と続きます。台地下の北側には北出丸、そして西側に西出丸があります。三ノ丸以外の各門は枡形石垣門になってました。
主郭は、天守とそこから南と東に伸びる走長屋の多聞櫓によって区分けされ、南東側の御殿などが配置されている区域が本丸、その北から西側をL字に取り囲む帯郭となっています。
主郭の虎口は、全て帯郭に接続して天守の下にある鉄門を通って本丸に至ります。現在の縄張は、主郭の東と北、西の三方の桝形の外側を馬出で防御しており、郭の構成は簡単ですが、厳重な縄張になっています。
元々、東西に伸びる舌状台地を堀切で区切った連郭式の縄張で三の丸側が大手でした。後に城下の街道の整備によって大手を北側に変更して、防御のために北と西にあった馬出を出丸として拡張し現在の縄張となりました。
北と西の出丸は、主郭が位置している台地の下にあって、出丸を突破しようとする敵を高低差をうまく利用して攻撃ができるようなっています。
主郭の櫓は、出丸の虎口を制圧できる位置に配置されており、特に大手の北出丸虎口は、その防御の堅さから「鏖丸(みなごろしまる)」と称されました。
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会津若松城の所在地
〒965-0873 福島県会津若松市追手町1−1
会津若松城へのアクセス
・JR磐越西線・会津若松駅より路線バスに乗り継いで「鶴ヶ城北口」下車
・まちなか周遊バス「ハイカラさん」「あかべぇ」に乗車、鶴ヶ城下車、徒歩5分
・高速バス(仙台・福島・郡山・いわき・新潟・野沢の各線)の起終点「鶴ヶ城・合同庁舎前」で下車
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