中津城(三大水城の一つ)

大分県

中津城は、水城(海城)で日本三大水城の一つです。豊臣時代から江戸初期において九州地方に入った大名は海城を居城としています。
豊臣時代に豊前国の黒田氏が中津城を築城しました。江戸初期には細川氏も入城しましたが、細川氏は海城である豊前国小倉城(福岡県北九州市小倉)を同時に使用していました。
細川氏がそれ以前に居城としていた丹後宮津城(京都府宮津市)も海城であり、細川氏の海城に対する執着は強かったようです。
続日本100名城191番(日本城郭協会)に選定されました。

中津城(なかつじょう)は

豊前国中津(大分県中津市)にあった日本の城です。豊臣秀吉の軍師であった黒田孝高(官兵衛・如水)が築城して、さらに細川忠興が完成させました。以後小笠原氏、奥平氏と続いて中津城を居城としました。

中津城の主な沿革

1587年に黒田孝高(官兵衛・如水)が、豊臣秀吉よって豊前国6郡12万3000石を与えられ、当初は馬ヶ岳城に入城しました。その翌年、如水は領地の中心である山国川河口に中津城の築城を始めました。

1600年の関ヶ原の戦いでは、黒田家(如水の子・長政)は徳川方につき、如水自身は中津城から西軍方の武将の所領を攻めました。長政の戦功により筑前52万石に加増となり、名島城に転封となり築城が一時中断されました。

如水像(黒田孝高)

同年には、細川忠興が豊前国と豊後国2郡39万石で入封して大修築を開始しました。1602年には小倉城築城に着手して、忠興は小倉城を主城とし居城します。修築中の中津城主には細川興秋がなります。

1621年には、扇形の縄張に拡張されて中津城が完成しました。1632年には、細川家の熊本藩転封に伴い、小笠原長次が8万石で入封して中津藩が成立し、その後、中津城は中津藩の藩主の居城となりました。

1717年には、奥平昌成が10万石で入封して明治維新まで奥平家の居城となりました。
1856年には海防強化のため、海から城への入口に当たる山国川河口の三百間突堤に砲台を建設しました。

1863年には、本丸に松の御殿が新築され、その後、小倉県、福岡県、大分県の中津支庁舎として転用されています。1870年には、中津藩士である福沢諭吉の進言によって御殿を残して、その他の建造物を破却されました。

1877年の西南戦争には、西郷隆盛の挙兵に呼応して増田宋太郎が率いる中津隊の襲撃により中津支庁舎であった御殿が焼失しました。1964年には、旧藩主の奥平昌信が中心となり市民らの寄付を合わせて模擬天守が建造されました。

中津城の縄張

周防灘に臨む中津川河口の地に築城された梯郭式の平城です。堀には海水が引き込まれた水城(海城)で、今治城と高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられています。本丸を中心として、北に二の丸、南には三ノ丸があります。

全体では、ほぼ直角三角形をなしていたため、扇形にたとえて「扇城(せんじょう)」とも呼ばれています。櫓22基、門8棟があり、総構には6箇所の虎口が開けられました。

中津城は冬至に朝日が宇佐神宮の方角から上り、夕日が英彦山の方角に落ちる場所に築城されています。

中津城の一つの特色である石垣は、黒田孝高(如水)が普請したもので現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものです。本丸の上段と北面の石垣は、黒田家の石垣に細川家が石垣を継いだ境が見られます。黒田時代の石垣は四角く加工された石が多く、細川時代の石垣は丸みを帯びた自然石が使われています。

また、本丸南の堀と石垣は、現在の中津市によって修復・復元されていますが、ここにも黒田・細川時代の石垣の改修跡を見ることができます。

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中津城の所在地

〒871-0050 大分県中津市二ノ丁1273-2

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公共交通:JR中津駅→徒歩15分

車:東九州道中津ICから12km25分

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