植木町中心から南に伸びる舌状台地の尖端、茶臼山の丘陵に築かれた平山城です。
元々あった千葉城と隈本城を取り込んで加藤清正(清正公せいしょうこう)が現在の本丸にあたる部分の築城を行いました。細川氏の時、城地の拡張と増築が盛んに行われ、西側に二の丸と三の丸が加わりました。
西南戦争で天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失したり1889年熊本地震で石垣の一部崩落、2016年熊本地震による多くの石垣が崩落など被災したりしましたが、その都度復元や修復作業が行われ、熊本城の本来持つ美しい姿を取り戻そうとしています。
熊本城(くまもとじょう)は
肥後国飽田郡熊本(現在の熊本県熊本市中央区)に築かれた安土桃山時代から江戸時代の日本の城で、別名を「銀杏城(ぎんなんじょう)」と言います。
加藤清正が中世城郭を取り込んで改築した平山城で、加藤氏が改易後、幕末までは細川家の居城でした。
宇土櫓を始めとする櫓や城門、塀が現存しており、13棟(櫓11棟、門1棟、塀1棟)が国の重要文化財に指定されており、日本100名城92番(日本城郭協会)に選定されました。
熊本城の主な沿革
熊本城は、室町時代に肥後守護菊池氏の一族の出田秀信が千葉城(ちばじょう)を築いたことが始まりです。その後、出田氏の力が衰えたので、菊池氏は代わりに鹿子木親員(寂心)に隈本城(くまもとじょう)を築かせて入城させました。
1587年には豊臣秀吉の九州平定に際して、薩摩の島津氏に属していた城久基は、隈本城を明け渡して筑後国に移り、新たに肥後の領主となり隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国人一揆を引き起こします。
この時、隈本城は国人衆による猛攻を受けましたが、城代の神保氏張が死守して落城は免れています。1588年に成政は切腹を命じられ、代わりに加藤清正が肥後北半国19万5,000石の領主となって隈本城に入いりました。
加藤清正は、1591年から千葉城と隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始め、1600年頃には天守が完成しています。同年の関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となります。
1606年には城の完成を祝い、翌年に「隈本」から「熊本」と改めました。これが現在の熊本城です。1610年から、通路で南北に分断されていた本丸に、通路をまたぐような形で本丸御殿の建築を行いました。これにより天守に上がるためには、本丸御殿の地下通路を通るようになりました。
1632年には、清正の子である加藤忠広が改易になったので、豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入りました。忠利は、城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営して、以後に歴代藩主は、ここを日常の居住地としました。
また、細川忠利は、直ちに熊本城の修繕を江戸幕府に申し出て、建築物の修理だけでなく本丸の増築や二の丸の整備を行いました。さらに熊本城は細川氏の治世下で江戸時代を通じて拡張され続けていきました。
幕末の熊本藩には、学校党と実学党、敬神党の3つの勢力がありました。明治維新後は、進歩的であった実学党が政権を握り熊本城の解体を新政府に願い出て受け入れられましが、作業開始当日になり解体は凍結となりました。理由は、藩内に意見の相違があったためと言われます。
維新直後の1871年、鎮西鎮台が設置されており、二の丸を中心に1875年歩兵第13連隊、1925年、熊本陸軍教導学校、1943年には熊本予備士官学校ができました。
熊本鎮台司令であった桐野利秋は、老朽化した櫓や多重櫓の破却を指示し、特に西出丸は石垣を取り崩し、郭自体を破却しています。西南戦争前には天守と本丸御殿を中心とした本丸主要部のみ保存されていました。
1876年の神風連の乱の時には、反乱士族が鎮台司令官種田政明などを襲って城内の砲兵営を制圧しましたが、1日で政府軍に鎮圧されています。
西南戦争では、西郷軍の総攻撃2日前に原因不明の出火で大小天守などの建物が焼失しました。
熊本城は、政府軍4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え撃退に成功しました。この戦いでは、熊本城の特色である「武者返し」が役立ち、西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったと言われています。
西郷隆盛は「官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と嘆いたという逸話が伝わっており、清正公が築城した熊本城は、この攻防戦でその防衛力の高さを存分に発揮することができました。
熊本城の縄張
城郭は梯郭式の平山城で、広さは約98ha、周囲が約5.3kmあります。南西の古城と北東の千葉城を取り込んで、それらを出丸としています。
南東を流れている白川を外堀と見立てて、これに合流していた坪井川と井芹川を切り離して内堀としているので、城内の水堀は飯田丸の西にある備前堀1つだけです。
熊本城の郭は大きく分けて4つに分類されます。現在有料公開の本丸周辺に西出丸を加えた本城、二の丸、三の丸、更に出丸として旧隈本城の千葉城、古城、段山があります。
本丸は、丘陵の東の最も高い部分に造ってあり全面石垣積みとし、西へ緩やかにくだる二の丸と三の丸は、重点箇所だけに石垣を築いて経費を抑えました。
搦手口のある北は他の方面に比べて内郭に近接していますので一般的には弱点とされますが、断崖と空堀(現在は道路)に仕切られいるので突破は困難です。
これに対して、西側は開けてあり傾斜も緩いので、西出丸と二の丸、三の丸で区画して防備を固めていますが、城郭西端の先に独立の小丘としての段山(だにやま)があります。籠城の兵力の関係で総構えを放棄した西南戦争では、この段山を巡る戦いが行われました。
加藤清正は、特に石垣造りを得意としています。熊本城では、最初は緩やかな勾配のものが上に登るにしたがって垂直に近い「武者返し」という形状の石垣を多用されています。
熊本城の「武者返し」は、慶長の役(豊臣秀吉)の時に朝鮮に築かれて難攻不落と呼ばれた蔚山倭城(うるさんわじょう)の築城に使用した技術を元にしたものです。
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熊本城の所在地
〒860-0002 熊本県熊本市中央区本丸1−1
熊本城へのアクセスはこちら
◆阿蘇くまもと空港から
<空港リムジンバス>
熊本空港バス停~桜町バスターミナル
※桜町バスターミナルより徒歩約5分
◆熊本駅から
<バス>
熊本城周遊バス(しろめぐりん)
※熊本駅前を基点に熊本城周辺を走るバス
<市電>
熊本駅前電停~熊本城・市役所前電停
◆九州道熊本インターから
国道57号線を熊本市街地方面へ車で約30分
◆九州道熊本空港インターから
県道36号線(第二空港線)を熊本市街地方面へ車で約40分
◆九州道植木インターから
国道3号線を熊本市街地方面へ車で約40分
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