城跡は、大分城址公園となっており、本丸跡の北西隅に二重櫓(人質櫓)と西丸に平櫓(宗門櫓)が現存しており、石垣や土塀、堀と共に大分県の史跡に指定されています。
3棟の二重櫓と大手門、土塀、廊下橋が復元されており、2017年12月27日~2018年2月14日には、金属製パイプで天守の骨格を再現して、LEDによるライトアップが行われました。2018年3月27日~2019年2月14日にも再度ライトアップが行われています。
2006年には、日本100名城94番(日本城郭協会)に選定されました。
大分府内城(おおいたふないじょう)は
12万石で入封した福原直高は府内の荷落という場所に築城を始めましたが、朝鮮征伐(文禄の役)の失態により改易され、その後、早川長政が代官として入り、関ヶ原の戦いの後に3万5千石で入封した、竹中重利が完成させました。
府内城は海城でも知られており、豊臣氏政権時代から徳川氏政権初期段階においては、九州地方を治めた大名は、ほとんどが海城を居城としています。江戸時代には、府内藩2万1000石の藩庁が置かれていましたが、明治初期に本丸と東丸、西丸以外は破却され、堀の一部も埋め立てられました。第二次世界大戦時には、大分空襲により櫓が数棟焼失しています。
大分府内城の主な沿革
鎌倉時代から戦国時代にかけて豊後国及び筑後国の守護大名であった大友氏は、現在の大分駅東方に、大友氏館と呼ばれる守護館を築き本拠としました。この館を中心に府内と呼ばれる市街が形成されています。
南方の上野丘陵には、上原館と呼ばれる堀や土塁を備えた防衛の拠点が置かれていました。
しかし、2度ほどの府内侵攻を受けた際は大友氏方はいずれも府内を捨てて近くの高崎山城などに拠点を移しています。
1586年には、島津氏の侵攻により大友氏館などを含む府内の中心部が焼き払われました。1593年には、豊臣秀吉臣下の大友義統が、文禄の役(朝鮮征伐)における失態により改易され、早川長政が代官として府内に入りました。
1597年には、12万石を得て臼杵(大分県)から転封した福原直高(豊臣秀吉家臣)は、堅固な城郭を求めて大分川河口付近に築城を開始しました。当時の海岸線は現在より内陸に入り込み、大友氏か治めた時は船の荷役が行われていた場所ということで「荷落」と呼ばれていましたので、地名を「荷揚」に改めて城の名前を荷揚城としたと言われています。
1599年には荷揚城が完成して、豊臣秀吉の死後、石田三成派であった直高は徳川家康により6万石に減封の上再び臼杵に転封されて、直高入封前に府内代官であった早川長政が再びこの城に入城しました。
1601年には、 関ヶ原の戦いで西軍に付いた長政が改易となり、竹中重利が3万5千石で入城しました。直高時代に築城された荷揚城の大改修を開始して、1602年には天守や諸櫓、山里曲輪、内堀が完成しました。1605年には外堀が、1607年には笠和口、堀川口、塩九升口の各門が完成して大改修は概ね終了しました。
1634年には、2代で改易となった竹中氏に代わって、日根野吉明が2万石で入城しますが、1656年には、吉明は嗣子なく没したので日根野氏は廃絶となり、臼杵藩主であった稲葉信通が城代となります。
1658年には、大分郡2万石を領する松平忠昭が高松陣屋より入城して、以後、明治維新まで大給松平氏が居城としています。
大分府内城の縄張
府内城は、大分市街の中心に位置する梯郭式平城です。北東隅に本丸を、そして東丸、西丸、山里曲輪が配されています。侍町であった三の丸が北西から南東に大きく広がっており、本丸等を囲んでいます。各曲輪は堀で仕切られ、渡櫓と廊下橋で連結されていました。
櫓は、白漆喰を塗籠めたもので、連子格子の窓と袴型の石落としを標準装備で持っていました。層塔型で地階(地下)を持っていて二重櫓は城内から三重に見えたと言います。東丸には、最上階が天守と同じ形式の高欄と火灯窓を備えた三重櫓が建っていました。
天守の構造は不明ですが、1605年に描かれた『府内絵図』と『正保城絵図』には天守についての書き込みがあります。天守南側と西側には、多聞櫓形式の取付櫓(付櫓)があり、西側は二重櫓、南側は東大門とそれぞれ連結していました。
天守については、層塔型天守なのか、望楼型天守なのか、いろいろな説があります。
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大分府内城の所在地
〒870-0046 大分県大分市荷揚町1−2−1
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【徒歩の場合】
○JR大分駅から徒歩約15分
【バスを利用する場合】
○JR大分駅上野の森口(南口)100円循環バス「大分きゃんばす」行 約9分「大分市役所合同新聞社前」下車、徒歩約1分
○JR大分駅府内中央口(北口)⑥のりば 萩原・高城・鶴崎方面行 約6分、「大分市役所合同新聞社前」下車 徒歩約1分
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