黒田孝高(如水・官兵衛)の子、黒田長政が築城した福岡城です。
城跡の主要部分は、国の史跡に指定され、舞鶴公園と大濠公園となり、多くの方に親しまれています。
城跡には現存する櫓や移築された櫓や城門、復元された櫓や城門が点在しています。
毎年、春になると「福岡城さくらまつり」や「おおほりまつり」が開催されており、光雲神社から福岡城跡まで黒田孝高(官兵衛)、黒田長政、黒田家二十四騎に扮した人々等の勇壮なパレードが盛大に行われています。
2006年には、日本100名城85番(日本城郭協会)に選定されました。
福岡城(ふくおかじょう)は
江戸時代初頭に関ヶ原の戦いで功績のあった黒田長政が、警固村福崎の丘陵地に築いた城です。
明治維新まで、外様大名であった福岡藩黒田氏の居城となりました。
築城の際には、黒田家のゆかりの地であった備前国福岡にちなんで「福崎」から「福岡」に地名を改めたということです。
警固村福崎は古くから商人の町として栄えており、博多の西側に位置していました。
福岡城の主な沿革
1600年に黒田孝高(如水・官兵衛)と長政父子は関ヶ原の戦いの功績によって豊前国中津16万石から、筑前一国52万3千石で筑前名島に入封しました。
旧領主のに小早川秀秋の名島城に入城しました。
名島城を廃して福崎丘陵を新しい城を築城する場所に選び、1601年には、築城が開始され、1607年に竣工しました。
江戸時代には、歴代藩主によって二の丸御殿や西の丸御殿の増築など数度の改修が行われました。
特に幕末の11代藩主であった黒田長溥によって大改修が行われました。
1871年の廃藩置県により旧下屋敷に福岡県庁が置かれ、1873年の廃城令により存城処分となりました。
1902年には、床下にあった火薬が爆発し鉄物櫓が焼失し、1920年には祈念櫓が北九州市八幡東区の大正寺に観音堂として移築されますが、1983年には再び元の地に移築されました。
1945年には、黒田家別邸に移築されていた本丸武具櫓が福岡大空襲で焼失しています。
福岡城の縄張
福岡城は、梯郭式の平山城です。
本丸の南西に南二の丸、北東隅に東二の丸、この2つを結ぶようにして囲むのが二の丸で、二の丸の西から北東に三の丸が囲む配置になっています。
城跡の建物は47基の櫓や10棟の城門を配しており、縄張りの範囲は約24万㎡に及んでいます。
東側に那珂川を堀として高石垣を南北に長く築いており、西側は干潟の「草ヶ江」を大きな池沼堀として活用しました。城下町は、城の北側に東西に長く開かれました。
大天守台と中天守台、小天守台の3つからなる連立式の天守台がありました。
大天守台は東西約25m、南北約22mの大きさで、東側に中天守台と小天守台が連なっています。
天守の存在という事実は確認されておらず、福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』にも天守は描かれてないため、幕府への遠慮から天守は造築されなかったとされています。
しかし、近年になって、天守の存在を示す記述が発見され、天守があった可能性が出てきました。
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福岡城の所在地
〒810-0043 福岡県福岡市中央区城内1
福岡城へのアクセスはこちら
福岡市営地下鉄「赤坂駅」2番出口から徒歩約10分
(三の丸スクエアへは「大濠公園駅」5番出口から徒歩約10分)
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