日本五大山城の一つに数えられる有名な城です。浅井長政とお市の方(織田信長の妹)との悲劇の舞台として語られ、浅井三姉妹(茶々→豊臣秀吉の側室、初→京極高次の正室、江→徳川秀忠の正室)が産まれた城でも有名です。
現在は土塁・曲輪などのほか、先駆的に取り入れられた石垣などが遺構として残っているだけですが、1937年には国の史跡に指定され、日本100名城49番(日本城郭協会)に選定されました。
小谷城(おだにじょう)は
浅井氏三代の城で初代の浅井亮政によって築城された中世の山城です。山城としては規模が大きく難攻不落の城であったと想像でき、信長か落城させるのに苦労したということも頷けます。
山腹や谷筋には屋敷跡が残っていますが、家臣の屋敷などの多くはその山城にありました。本城である小谷城、清水谷(きよみずだに)、山頂の大嶽(おおづく)、清水谷の北側に伸びている尾根の福寿丸や山崎丸などの砦を含めると、その城域はかなり広かったと思われます。
小谷城の主な沿革
標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に1525年頃に築城されたと言われています。歴代三代城主は、初代の浅井亮政、二代の久政、そして、お市の方の夫である三代の浅井長政です。
久松と長政親子は、朝倉義景と共に義兄の織田信長と戦ったことで知られています。1570年に小谷城から南に5kmほどの姉川で、浅井と朝倉の連合軍と織田と徳川連合軍が激突しました。歴史的にも有名な、あの「姉川の戦い」です。
織田軍は勝利しましたが、小谷城の堅固さを理由に一時城攻めを断念し、姉川の南岸に横山城を築城させ家来の木下秀吉(後の羽柴・豊臣秀吉)を配置して浅井氏に対する前線基地としました。その後も浅井軍と織田軍とで争いがあり、浅井軍の諸将が徐々に寝返っていき、小谷城の南側の正面にある虎御前山へと前進しましたが、小谷城の包囲するまでには至りませんでした。
1573年、山本山城の守将である阿閉貞征が羽柴秀吉の調略によって織田方に寝返ったため、山本山城が手に入り小谷城の包囲ができ、信長は小谷城への北国街道のルートを封鎖に成功しました。
浅井家の援軍である朝倉義景の約2万の軍勢は小谷城に入ることができず、その混乱の中で焼尾の砦を守る浅見対馬守が降伏したため、信長は小谷城攻略がやりやすくなりました。
その年の8月に嵐が襲来して、これを好機と見た信長は、浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃して落城させました。翌日には、形勢不利と見た朝倉軍が撤退するところを一気に攻撃して朝倉軍に壊滅的な打撃を与えました。世に言う刀根坂の戦い(とねざかのたたかい)です。
信長は一気に越前に攻め込み朝倉氏を滅亡させ、虎御前山に帰陣しました。その翌日には、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城の京極丸を急襲をかけ陥落させ、本丸を守る長政と小丸を守る父の久政と分断に成功しました。
その日の内に小丸が落城し久政は自害しました。さらには本丸も落ちて、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃して、ついには浅井氏は滅亡しました。
その後、浅井氏の旧領が羽柴秀吉に与えられますが、秀吉は琵琶湖から離れ交通の便の悪い小谷城を嫌って1575年に北国街道と琵琶湖に面した、港もある今浜に新たに長浜城を築城しました。そのため、小谷城は廃城となり現代に至っています。
小谷城の縄張
小谷山一帯の尾根筋や谷筋をそのまま活用した南北に長い山城です。築城当時は、現在の本丸跡よりさらに北に位置している大嶽城付近に本丸があったと考えられています。久政と長政により代々城の拡張が重ねられ現在の城郭になりました。
落城後、羽柴秀吉によって長浜城の建築資材として使うため、小谷城は解体されてしまいましたが、山王丸付近に現存している大石垣をみると、当時としては先進的で大規模な城であったことが推察されます。小谷城は、多くの郭によって構成されています。
本丸とその奥に続く中丸との間には深さ5m~10m程の堀切があり、大きく南北2つの部分に分けることができます。郭を防備するため武家屋敷跡が点在しており、清水谷などの要所には重臣の屋敷が配置されていました。
御茶屋敷曲輪は、番所跡の上にある曲輪で主郭部の最先端にありました。曲輪は一郭で中央に低い土塁があり、「御茶屋敷」という軍事施設が設けられていました。御馬屋敷曲輪は、本丸防備のために築かれ、三方が高い土塁で囲まれています。
また、御馬屋敷曲輪の清水谷の斜面側にはいくつかの竪堀が見受けられ、近くに馬洗池跡があり、南北9m×東西6.6mの石で組まれた池によって中央が仕切られていました。
堀切より北側には、中丸、京極丸、小丸、山王丸と続いています。中丸は大堀切の北側にあり、三階段の曲輪でそれぞれの段で横矢を築いています。
京極丸の北側に小丸があり、ここは浅井久政が自刃した場所で、左右2段の曲輪からなっています。主郭部の最も北側にあるのが、山王丸です。山王丸は4段から成り、詰めの曲輪でもあります。また、山王丸の東側には高さ5mからなる大石垣がありました。各曲輪の虎口にも石垣が確認できます。
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小谷城の所在地
〒529-0313 滋賀県長浜市湖北町伊部
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○電車
西日本旅客鉄道(JR西日本)北陸本線「河毛駅」
○自動車
北陸自動車道 長浜IC → 国道365号 → 伊部林道
山腹に無料駐車スペース有
○徒歩
河毛駅より徒歩約25分程度で登山口、登山口から本丸曲輪部分へは徒歩約25分 (道は岩が多く歩きづらい。)
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