明石城(あかしじょう)

兵庫県

1960(昭和35)年、日本標準時子午線上に建設されたのは、ご存じのことと思います。明石のシンボル、大時計が日本の標準時を刻んでいます。実は、この明石市には、日本100名城No.58に選定されている明石城があります。ぜひ、この素晴らしさをご堪能ください。

明石城(あかしじょう)は

兵庫県明石市にある日本の城です。別名、喜春城(きはるじょう又はきしゅんじょう)、錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれています。

明石は山陽道が通っており、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、淡路島四国のルートがあり、昔から交通の要衝でありました。明石城は、徳川幕府が西国の外様大名の抑えとして、姫路城についで着目されていた城です。

明石城の主な沿革

今から400年前の1619年(元和5年)に、初代明石藩主小笠原忠政(後の忠真…ただざね)が外様大名の多い西国の備えとして、徳川幕府2代将軍秀忠から命じられ築城しました。

人丸山(ひとまるやま)の地の利を活かして、三木城、高砂城、枝吉城、船上城(ふなげじょう)の木材を使用し着工されました。坤櫓(ひつじさるやぐら)は伏見城の遺材、巽櫓(たつみやぐら)は船上城の遺材が使用されたと伝えられています。

苦心して明石城を築城した小笠原忠真は、1632年(寛永9年)豊前小倉藩(小倉城)に転封(てんぽう※国替)となりました。その後の50年の間は、城主が目まぐるしく入れ替わり、越前家の松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで10代、189年間親藩として松平氏の居城となりました。

各城の遺材を集めて築城したということでせいか、老朽化が早く第2代藩主松平直常(まつだいら なおつね)の1739年(元文4年)には大修築が行われました。

最後の明石城主は、松平直致(まつだいら なおむね)で、明治7年の廃城令によって廃城となりました。現在中堀の内側は明石公園として整備され、日本さくら名所100選に指定されています。櫓や石垣は、平成7年の阪神・淡路大震災で被害を受け、全面修復されました。

明石城の縄張

築城した当初は、舌状台地(ぜつじょうだいち)の先端に向かって二の丸と本丸があり、台地の下に三の丸(本三の丸)がある梯郭式でした。しかし、その後二の丸を分断して三の丸(東の丸)をつくったため連郭式に変化しています。連郭梯郭混合式の平山城です。

舌状台地(ぜつじょうだいち) とは、台地が平地にのぞむ末端の部分で、舌のようなかたちで平地側に突き出した形となり、ある特定の方向では本体の台地に連続しているものの、他の三つの方向では、崖や斜面などを成して低地に面しているような地形を言います。

梯郭式 (ていかくしき)とは、本丸を片隅に配置し、片方に二の丸、三の丸が囲むタイプで、梯子を登るようなイメージの配置となっています。

連郭式(れんかくしき)とは、本丸、二の丸等の曲輪(くるわ)を並列させて配置してあるタイプです。

城郭は、本丸を中心に配し、東側に二の丸、その東に東の丸が配置され、南側に三の丸、西側には稲荷郭(いなりくるわ)が設けられた。本丸、二の丸、東の丸は明石城の主郭部分で、この部分の石垣、土塁、堀などの建設は徳川幕府が担当し、三の丸と町屋に関しては、小笠原氏と徳川幕府との共同事業として進められました。

本丸の西南に天守台の広さは約152坪があります。5重規模相当の天守が築かれる予定でしたが、天守は建設されず、四隅に巽櫓(たつみやぐら)、坤櫓(ひつじさるやぐら)、乾櫓(いぬいやぐら)、艮櫓(うしとらやぐら)が建設されました。

本丸跡に建つ巽櫓(たつみやぐら)と坤櫓(ひつじさるやぐら)は日本に12基しか現存していない三重櫓のうちの二つで、国の重要文化財に指定されています。

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明石城の所在地

〒673-0847 兵庫県明石市明石公園1−27

明石城へのアクセス

【電車で】
新幹線「西明石駅」よりJR「明石駅」まで5分
JR・山陽電車、各「明石駅」より徒歩5分
【自動車で】
第二神明道路「大蔵谷IC」より約10分
第二神明道路「玉津IC」より約15分

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