福山城 (備後国)

平山城

福山城は、五層六階の複合天守をもつ平山城です。

江戸期の築城天守としては随一評価された城だったそうです。

しかし、昭和20年の戦災で天守は消失してしまい、現在は鉄筋で再建されています。

福山駅のすぐ裏手にありますので、ぜひ観て欲しい城です。

福山城(ふくやまじょう)は

広島県福山市にある日本の城です。

城跡は国の史跡に指定されており、久松城(ひさまつじょう)、葦陽城(いようじょう)とも呼ばれています。

日本100名(No.71)の一つです。

福山城の主な沿革

福山城は、江戸時代の初期に建造された城郭で最も新しい城です。

元和5年(1619年)関ヶ原の戦い以降、備後国と安芸国の2国を治めていたのは、福島正則(ふくしままさのり)でした。

しかし、正則が武家諸法度違反により改易(大名としての家を断絶させ、取りつぶしてしまうこと)になりました。

その後に入城したのが徳川家康の従兄弟である水野勝成です。

勝成は毛利氏など西日本の有力な外様大名を抑えるため、備後国東南部と備中国西南部の計10万石を与えられました。

この時期としては、異例の新規の築城が行われたと言われています。

初代城主 水野勝成 像

城は、瀬戸内海との往来や西国街道との距離が考慮され、深津郡野上村の常興寺山(常興寺)一帯が選定されました。

築城に際しては、城地に含まれいたた常興寺は近郊の吉津村(現在の市内吉津町)に移転され、北側は東西方向に切り開き、総構えの堀を兼ねた川(吉津川)が通されました。

干潟であった南側は、干拓されて城下町が開かれ、この町は、後に福山と名づけられました。
築城は、低湿地な場所ということもあって困難を極めたと言われています。

城の用材として、築城には廃城となった神辺城と伏見城の遺材が多く用いられました。

この時に、伏見城から移築された建造物としては、伏見櫓や月見櫓、御殿(伏見御殿)、御風呂屋(御湯殿)、鉄御門、追手御門、多聞櫓などがあります。

築城開始してから3年近くの歳月を要して、元和8年(1622年)に福山城は完成しました。

2重の付櫓が取り付く複合式の五重天守や三重櫓7基、二重櫓16基、総延長291間(約570メートル)の多聞櫓と、10万石の大名の城としては、大規模の城と言えます。

福山城が西国街道と瀬戸内海の要衝を護る城として幕府に期待されていたことが伺えます。

築城時の縄張は、若干の改修はあったものの基本的に廃城まで維持されているということです。

水野氏5代のあとは、松平忠雅をはさんで、後に老中として日米和親条約を締結することになる阿部正弘を輩出する阿部氏が10代続き、明治を迎えます。

廃城令後も、建物の一部は取り壊し費用が高額ということもあり、引き取り手が現れず、伏見櫓、筋鉄御門(すじがねごもん)、鐘櫓が現在も残ってます。

天守は、昭和20年(1945)8月8日の空襲により焼失しました。

昭和41年(1966)の福山市制50周年を記念して、月見櫓、湯殿とともに外観が復元されました。

福山城の縄張

福山城の縄張は、常興寺山と呼ばれる標高20メートル程度の丘陵を削平して築いた本丸を軸に、二の丸・三の丸が取り囲む輪郭式本丸を中心に二ノ丸・三ノ丸がまわりを囲んでいく縄張り)と呼ばれる形式を基本としています。

本丸の塁線(土などを積み重ねてつくった連続する構築物のこと)は複雑な屈曲を持ちそこから一段下がった周囲を帯曲輪である二の丸が1重または2重に取り囲んでいました。

これにより三の丸に対して鉄砲での重層的な火線を実現し、本丸と二の丸には天守を除き、併せて22棟の櫓と長大な多聞櫓が配置されていました。

三重櫓がやたらに多く大坂城(12棟)、岡山城(11棟)に次ぐ7棟と全国の城郭の中で3番目の数でした。

また、多聞櫓の総延長も大坂城(873間)、名古屋城(630間)に次ぐ291間と3番目の長さということです。

一方、三の丸は完全な平地で二の丸をカタカナの「ロ」の字のように囲んだ単純な構成をしており、櫓は3か所にしか配置されませんでした。

三の丸の周囲に広がる城下町は、総構えにより囲まれ、南東方向には「入川」と呼ばれる運河が瀬戸内海から外堀までほぼ直線に敷かれていました。

城下の通りは、一般的には城に対して横方向には真っ直ぐに延ばされるのが普通ですが、縦方向は要所で屈曲しており城まで真っ直ぐ進めないようにしてありました。

このように、福山城は平和な時代に入り徐々に単純化しつつあった城郭構成の流れに逆らうように複雑で実践的な縄張で造られていました。

しかし、二の丸、三の丸の北側は未完成のまま放置され欠陥を持った城でもあったようです。

なお、現在の曲輪(一定の地域を限って、その周囲と区別するために設けた囲い)は、本丸、二の丸、三の丸の構成で呼称されています。

本丸は、天守周辺のみわずかに高くなっていますが、ほぼ単一の平面で構成された南北方向に長い曲輪になっています。

櫓は天守と附櫓を除き、南西の伏見櫓から反時計回りに月見櫓、鏡櫓、亭櫓、玉櫓、塩櫓、内六番櫓、荒布櫓、人質櫓、火灯櫓の10ヶ所にありました。

また、櫓と櫓の間は、南面と天守周辺を除いた大部分に多聞櫓が廻らされていました。

城門は、本丸の大手である筋鉄御門、通用口の御台所門、棗木(なつめ)御門の3ヶ所にありすべて櫓門でありましたが、築城当初の御台所門と棗木御門は高麗門であったようです。

このうち御台所門跡は入口を石垣で塞がれ、階段は土砂で埋められ本丸から痕跡を判別できなくなっています。

福山城の所在地

住所:広島県福山市丸之内1-8
電話:084-922-2117(福山城博物館

福山城へのアクセス

鉄道を利用する場合は、JR山陽本線で福山駅下車、北口から徒歩5分の所にあります。

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