月山富田城-難攻不落の山城-

島根県

島根県安来市にある日本の城、月山富田城(がっさんとだじょう)です。

月山(がっさん、標高183.9m)の一帯にあり、戦国大名尼子氏が本城として、難攻不落の山城として戦国時代の屈指の要害でありました。

悲運の武将、山中鹿介(やまなか しかのすけ)が家臣としていた城としても有名です。

道の駅広瀬富田城
山中鹿介 石像

この城は、尼子氏滅亡後も山陰地方の支配において重要な役割を果たしました。国の史跡に指定され、日本五大山城の一つとされることもあり、日本100選No.65(日本城郭協会)にも選ばれています。

月山富田城(がっさんとだじょう)は

戦国大名、尼子氏の居城として山陰の要衝の地となりました。天然の地形をうまく利用して攻め落とすことが困難な山城として有名で、「天空の城」とも呼ばれています。

最終的に尼子氏は、毛利元就によって滅ぼされ、城も毛利領となりました。

この城の難攻不落は、「尼子十簱」という味方の城があったということも理由として挙げられます。

毛利氏が尼子氏を滅亡に追い込めたのは、この「尼子十簱」を最初に潰していったことであり、毛利元就は、決して力攻めはしませんでした。

月山富田城の主な沿革

平安時代に平景清が富田荘に来た時、築城したと言われています。1221年には、承久の乱の功によって佐々木義清が出雲と隠岐の守護となり月山富田城に入りました。

その後、守護が吉田氏、山名氏と変わりましたが、1486年に尼子経久(あまご つねひさ)が月山富田城を拠点に勢力を拡大して、出雲の実質的な守護となり、城域を拡大・整備していきました。

1543年には、大内氏(大内義隆、配下に毛利氏)に攻められますが、尼子国久らの奮戦により撃退し、1552年には尼子晴久が足利義輝及び朝廷より山陰山陽八ヶ国守護を任命されています。

1560年に尼子晴久が急死して義久が家督を継ぎますが、1565年には毛利氏の包囲を受け、籠城します。

翌年、兵糧が尽き開城して義久は捕らえられ安芸国へ送致されます。

その後、毛利氏の家臣が城代として入り居城としました。

1569年には、尼子氏の旧臣であった、山中鹿介(やまなかしかのすけ)を中心とする尼子再興軍が月山富田城を翌年まで攻めましたが、かっての自分たちの城を落とすことができず、尼子氏の再興は叶いませんでした。

江戸時代に入り堀尾氏の居城となり、1611年には堀尾忠晴が松江城に移り廃城となりました。

月山富田城の縄張

月山富田城は、標高約190mの月山(がっさん)山頂に主郭部を設けており、尾根の上には、大小の多くの曲輪(くるわ)を配した複郭式山城です。

南東以外の三方向は、急な斜面になっており、北側を正面とし、山麓部から山頂部へ郭を連ねていました。

進入路は、北麓の菅谷口(すがたにぐち)、正面の御子守口(おこもりぐち)、南麓の塩谷口(しおだにぐち)の3か所があり、これらの全てに城門を置いて、門の外には深い堀がめぐらしていました。

全ての進入路は、山腹にあった山中御殿に通じており、急な一本道の七曲りで、詰の城である山頂部と結んでいます。

本丸は月山最高所に位置しており、「甲の丸」とも言われています。

二の丸とは、深さ7~8mの堀切で仕切られており、ここに所在する勝日高守神社は、城の守護神社で、築城以前からあったと言われています。

二の丸、三の丸もあり、そこからは、日本海を遠くに望むことができました。

月山富田城の七曲り

この城の守りの主な特徴は、城内に土塁、その回りには巨大な堀が施されていたことです。

この他にも本丸にたどり着くことができない仕掛けが用意されています。

この城について一言て述べるなら、攻め落とすのに苦労する、力攻めがかなり難しい縄張の日本最大級の山城であったということです。

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月山富田城の所在地

〒692-0403 島根県安来市広瀬町富田

月山富田城へのアクセスはこちら

○JR荒島駅からイエローバス(広瀬行き)20分、市立病院前下車、山麓まで徒歩10分

○JR安来駅からイエローバス(観光ループ)35分

○JR安来駅からイエローバス(観光ループ)45分、市立病院入口下車、山麓まで徒歩10分

○JR安来駅よりタクシー20分

月山富田城周辺の地図はこちら

尼子経久の銅像
尼子神社

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