海に面し、海外に開かれた平戸は、日本の歴史の中で多く役割を果たしてきました。
海外との交流により独自の文化が花開き、異国情緒あふれる歴史を物語る建物や数多くの史跡に彩られているところです。その歴史的建造物の一つが平戸城です。
平成の大規模な改修が行われ、新たにリニューアルした平戸城になりました。ぜひ、ご来城ください。
平戸城(ひらどじょう)は
別名を亀岡城と呼ばれる平戸瀬戸に突出している平山城です。山鹿流築城法のもとに1718年31代松浦篤信の時に築城されました。現在の平戸城の天守閣は、1962年に復元されています。日本100名城No.90(日本城郭協会)に選ばれました。
平戸城の主な沿革
下松浦党の棟梁である松浦鎮信(まつうらしげのぶ)は、豊臣秀吉の九州平定に加わり、壱岐守護を称する波多氏に代わり、松浦郡と壱岐一国の所領が安堵されました。松浦党で最大の大名となったことで、後には松浦姓を名乗ったと言われています。
文禄慶長の役の後の1599年に、現在の日之嶽(現平戸市岩の上町)に最初の築城を開始しました。1600年の関ヶ原の戦いで、徳川家康の嫌疑を晴らすために城の一部を破却したと言われていますが、完成も間近の1613年、火災により大半が焼失しました。
自ら火を放ち城を破却したとも言われますが、理由として一つは豊臣氏と親交が厚かったことで江戸幕府の嫌疑を逃れるためとか、もう一つは最愛の嗣子の松浦久信の死によるものとか言われています。
火災の後、藩は再建することはしませんでした。平戸港を挟んだ北側(現平戸市の鏡川町)に「中の館(やかた)」と呼ばれる居館を構えて平戸藩の藩庁としました。
第4代藩主の松浦重信(鎮信)は、山鹿素行と交流があったので、素行を平戸に迎えうとしましたが、1685年に素行が亡くなってしまい、希望をかなえられませんでした。そのため、平戸藩は後に一族の山鹿高基と義昌を藩士として迎えました。
1702年、鎮信は、江戸幕府に平戸城の再築城を願い出て、翌年の1703年に許可されました。江戸時代の中期に築城が許可されたのとは異例だったと言われます。理由として考えられることは、徳川家との姻戚関係であったことと、東シナ海の警備の必要性があったと言われています。
5代藩主松浦棟によって1704年2月に着工され、1707年にほぼ完成しました。天守は造らず二の丸に建てた3重3階の乾櫓をその代用としていました。平戸城の築城指導は、山鹿義昌によってなされ、山鹿流軍学が基本の縄張です。
明治維新になり1871年、廃城令によって廃城となり、翌年、現存している狸櫓と北虎口門(搦手門)を残して城の建物は解体されました。
1962年、模擬天守及び復興の見奏櫓や乾櫓、地蔵坂櫓、懐柔櫓が建設されました。現在の城跡は亀岡神社の境内や亀岡公園となっています。
平戸城の縄張
平戸城は、平戸島の北部にあり平戸市の東部に位置しています。三方が海という、天然の堀で囲まれています。丘陵の頭頂部に本丸が築かれ、その南側に二の丸、東側に三の丸が配置された梯郭式の平山城です。
江戸時代の中期に再建され、山鹿素行の軍学に沿って縄張がなされたと言われています。平山城としては、唯一、山鹿流による城郭です。
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平戸城の所在地
〒859-5121 長崎県平戸市岩の上町1458
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