重要文化材 高知城

平山城

現存する12天守の一つである重要文化財、高知城です。

日本で唯一、本丸の建築群が残っていることでも有名です。大手門から天守へ向けて歩くと、当時の攻めのぼる気分を味わうことができると思います。

関ヶ原の戦いの功績により土佐24万石を与えられた山内一豊によって築かれた高知城ですが、「山内一豊の妻は、夫を支える、賢い妻」ということで、一豊の妻千代の「内助の功」は有名な話です。

山内一豊の妻「千代」

高知城(こうちじょう)は

高知県高知市にある日本の城です。別名を鷹城(たかじょう)と言います。
江戸時代には土佐藩の藩庁が置かれ、この時代に建造された天守と本丸御殿の両方が現存しているのは高知城だけです。

高知城天守と本丸御殿

また、天守と追手門が両方現存している城は、全国では高知城をはじめ弘前城と丸亀城の3ヶ所です。城跡は国の史跡に指定されており、日本100名城No.84(日本城郭協会)に選定されました。

高知城の主な沿革

戦国時代以前には、大高坂山城(おおたかさかやまじょう)または大高坂城と呼ばれる城が築かれていました。

現在の高知城は、慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いでおいて西軍に加担して改易された長宗我部盛親に代わって、東軍で功績のあった山内一豊(元掛川城主)が着工し、2代藩主の忠義の時代に完成しました。

山内一豊像

3層6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守がモデルになったと言われています。一豊は、最初に河中山城(こうちやまじょう)と名付けましたが、その後高智山城と名を変え、現在の高知城となりました。

明治6年(1873年)の廃城令や太平洋戦争による戦災を免れて、天守や御殿、追手門など15棟の建造物が現存しています。

現在は、高知県所有となっており、この15棟の現存建造物に加えて土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓(うしとらやぐら)の一部と伝わる部材が収蔵されています。

また、城内には一豊と妻の千代(見性院)や明治維新の立役者である板垣退助の銅像が立っています。

板垣退助像

高知城の縄張

高知城は、高知平野のほぼ中心にある大高坂山(標高44m)に築かれました。梯郭式の平山城で、山の南を流れる鏡川、北の江ノ口川をそれぞれ外堀として利用されていました。

天守は南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式になっています。最上階の高欄は、徳川家康の許可を得て造ったものと言われています。

入母屋破風とその上の唐破風、最上階の黒漆で塗られた高欄は、格調の高い仕様で、山内氏のこだわりが感じられます。現存天守は寛延2年(1749) に再建されたものです。

独立式望楼型4重6階、1重目の屋根を腰庇(こしびさし・・・雨漏り防止の板張り屋根)として3重6階と数えられることもあります。窓は突上窓と連子窓、天守台がなく本丸上に、直に礎石を敷き御殿に隣接して建てられています。

本丸御殿は、天守に隣接して造られており、築城当初、二ノ丸御殿ができるまでは、一豊とその妻千代(見性院)が暮していたと言われています。

追手門は、門の入り口を枡形の巨大な石垣で囲まれており、敵を三方から攻撃できるようになっています。鉄門跡は、かつて二階建ての門があり、鉄板を打ち付けた扉がありました。門を入ると枡形になっており、詰門へと続いています。

忍び返し

詰門は、本丸とその北側にある二ノ丸の間にかけられた櫓門です。二階は二の丸と本丸を結ぶ廊下橋となっている一方、一階部分は敵がまっすぐに通り抜けられない構造になっています。

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高知城の所在地

〒780-0850 高知県高知市丸ノ内1丁目2−1

高知城へのアクセス

自家用車で行く場合

高知自動車道を利用

高松~高知IC 約1時間40分

松山~高知IC 約1時間50分

徳島~高知IC 約2時間40分

岡山~高知IC 約2時間

JR高知駅からの場合

バス 約10分 「高知城前」下車

電車 約15分 はりまや橋乗換え後、「高知城前」下車

徒歩 約25分

高知龍馬空港からの場合

空港連絡バス 約35分 はりまや橋~高知龍馬空港間

タクシー   約30分

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