鹿児島城は、1601年頃に島津18代当主、初代藩主の家久が築城した島津氏の居城です。背後の山城(城山)と麓の居館からなる平山城(山城・平城)です。
幕末の島津斉彬と篤姫、西郷隆盛、大久保利通など、関係の深い城でもあります。
居館の正面中央には、威風堂々たる「御楼門」があり、御楼門は、1873 年の火災で焼失しましましたが、2020年に日本最大と言われる城門として復元されました。
2006年には、日本100名城97番(日本城郭協会)に選定されました。
鹿児島城(かごしまじょう)は
薩摩国鹿児島郡城山麓(現在の鹿児島県鹿児島市城山町)に築かれた江戸期の日本の城です。別名を「鶴丸城(つるまるじょう)」と言います。鹿児島では、一般的に古くから鶴丸城として親しまれています。
鶴丸城は、屋形の形が鶴が羽を広げたようであったことが由来とされています。築城されてから明治時代の廃藩置県まで島津氏の居城となり、城跡は鹿児島県史跡に指定されています。西郷隆盛の西南戦争でも知られている城郭です
鹿児島城の主な沿革
1601年に島津忠恒(家久)によって四神相応(東に棈木川、西に出水筋、南に錦江湾、北に城山)の土地に築城されました。
前年の関ヶ原の戦いでは、島津氏は西軍側(石田三成)に属して敗北し、その責任で引退した島津義弘に代わり、実子の忠恒(家久)が新当主となり、東軍の徳川家康の脅威に対抗するため、鹿児島城(鶴丸城)の築城を開始して1604年に完成させました。
実父の義弘は、「海岸に近いこの土地が防御しにくく城を築くのに適さない」という理由で最後まで築城に反対しましたが、家久は築城しました。家康の薩摩征伐は実施されず薩摩藩は外様大名として存続を許され、家久の代に鶴丸城が実戦で使用されることはありませんでした。
しかし、数百年後、幕末の薩英戦争で実父である義弘の築城に反対したことが現実のものになり、イギリス軍艦から奥御殿に向けて砲弾が打ち込まれるなど脅威にさらされました。
鹿児島は災害の多い地域でもあり、幾度も倒壊や焼失をくり返しましたが、その都度、建て替えられましたが、1874年に焼失した後は、再建されることはありませんでした。
1901年以降、城址は第七高等学校造士館の校地として、戦後は鹿児島県立大学医学部、国立鹿児島大学医学部基礎教室などが置かれ、使用されています。
鹿児島城の縄張
江戸初期に島津家久によって築かれた、上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された平山城です。日本城郭協会の「日本100名城」では、平城や山城として位置づけされています。
城山は、南北朝時代では「上乃山城」及び「上山城」という上山氏の居城でしたが、後に島津氏に明け渡されました。その後、島津家久が城山の東の麓に屋形を築き居城としました。
麓の屋形は、本丸と二ノ丸、出丸で構成され、石垣が築かれましたが、77万石の大名の城としては、天守など高層建築や高石垣などは築かれませんでした。
その代わりに、中世式の山城を各地に残しており、113の区画をそれぞれの家臣に守らせるという外城制度を行っていたということです。
鹿児島城は北に本丸、南には二の丸がありましたが、単純な構造で防御に問題のある「屋形造」の城でした。そのため、裏山の城山を籠城のための「後詰めの城」としていました。
1873年頃には「御楼門」という大手口の櫓門と1重2階の兵具所多門櫓と角櫓(隅櫓)、書院造の御殿などがありました。
本丸跡には、現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館が、二の丸跡には、鹿児島県立図書館と鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建てられています。
石垣や堀、そして西郷隆盛の私学校の跡地である出丸跡、大手門との間に架かる石橋が現存しています。私学校の石垣には、西南戦争の時弾痕が数多く残されています。
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鹿児島城の所在地
〒892-0853 鹿児島県鹿児島市城山町7−2
鹿児島城へのアクセスはこちら
・鹿児島空港から車で40分
・鹿児島中央駅から車で10分
・カゴシマシティビュー「薩摩義士碑前」下車
・市電「市役所前」から徒歩約10分
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