肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市、東松浦郡玄海町)にあった、太閤・豊臣秀吉が文禄の役(朝鮮出兵)を始める前に築かせた日本の城です。
1985年に公開され、黒澤明監督による『乱』のロケ地の一つに名護屋城が選ばれて撮影が行われました。
現在、国の特別史跡に指定されており、2006年には、日本100名城87番(日本城郭協会)に選定されました。
名護屋城(なごやじょう)は
海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置する名護屋(古くは名久野)に築城されました。中世には松浦党の交易拠点の一つで、もともと松浦党の旗頭である波多氏の一族である名護屋氏の居城でした。
垣副城がありましたが、豊臣秀吉は、大陸への進攻を計画した際に、この土地を前線基地として大掛かりな築城を行いました。
名護屋城の主な沿革
豊臣秀吉は、1587年に九州の島津義久を降し(くだし)、1590年には奥州伊達政宗を服属させ、北条氏直を降して、徳川家康を関東に移封して天下統一を成し遂げました。
国内統一の途中においてすでに秀吉は世界に目を向けており、九州平定してから高麗(李氏朝鮮)に対して、服属と明(中国)征伐への協力を要請していましたが、朝鮮は拒絶しました。
その後も何回も交渉を重ねましたが、朝鮮側は拒絶を続けました。朝鮮へ派遣した使者から交渉決裂を聞いた秀吉は、1591年に出兵を決行することを全国に告げると、肥前の名護屋に前線基地としての築城を九州の大名に命じました。
秀吉は、自身の地元である那古野と同じ地名の「ナゴヤ」に奇遇に感じて、城の立つ山の名前が勝男山と縁起が良いことにも気をよくして築城を決めたということです。
築城にあたっては、縄張りを黒田孝高(如水)、そして黒田長政と加藤清正、小西行長、寺沢広高らが普請奉行となって九州の諸大名を主に動員して、突貫工事で8か月後の1592年に完成しました。規模としては、当時の城郭の中では大坂城に次ぐものであったと言われます。
秀吉の死後、大陸侵攻は中止となり、名護屋城は廃城となったと考えられており、建物は唐津城に移築されたと伝わっています。石垣は、江戸時代に起こった島原の乱の後に破却され、現在は一部分が残っています。
名護屋城の縄張
名護屋城は、波戸岬の丘陵(標高約90m程)を中心に170,000㎡にわたり築かれた平山城です。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3km内に120ヵ所ほどの大名の陣屋がおかれました。
名護屋城の周りには城下町が築かれて最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄しました。本丸と二の丸、三の丸、山里曲輪などを配して、本丸北西隅に望楼型5重7階の天守が築かれました。
城跡からは金箔瓦が出土しており、天守に葺かれたものと考えられています。城への入口は5ヶ所(大手門、西ノ門、北ノ門、舟手門、山里通用門)ありました。完成した後も改築が繰り返されたと言われています。
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名護屋城の所在地
〒847-0401 佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931−3
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JRを利用する場合
○福岡方面からは、筑肥線にて西唐津駅で下車。西唐津駅下車後、道路を渡り、西唐津駅前 バス停から呼子方面のバスに乗車すること。
※直通バスに乗車できない場合、全て呼子行きのバスに乗車。
※路線バスを利用できない場合、呼子からタクシー(5分程度)を利用。
高速バス利用又は唐津市中心部から来る場合
○(唐津市役所の隣の)大手口バスセンターから、呼子線か値賀・名護屋線に乗車。
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