飫肥城(伊東氏と島津氏による攻防戦で有名)

宮崎県

飫肥の武家屋敷を観ると、道路に沿って石垣を整然と積み上げられ、石垣の上には茶の木等の生垣があり、入口は格式に応じて薬医門や長屋門などを設けられています。とても魅力ある風景です。日南市飫肥では、飫肥城を中心に歴史的景観を活かした数多くのまちづくりが行われています。ぜひ訪れて、その景観の素晴らしさをご堪能ください。
日本100名城96番(日本城郭協会)に選定されました。

飫肥城(おびじょう)は

日向国南部(現在の宮崎県日南市飫肥)にある日本の城です。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄しました。飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城で、伊東四十八城の一つに数えられています。伊東四十八城とは、日向国戦国大名(伊東氏)よる支配域内に存在した48の外城及び砦の数を言います。伊東氏48塁とも呼ばれています。

飫肥城の主な沿革

飫肥城は、宇佐八幡宮の神官で日向の武士団として勢力を伸ばした土持氏(つちもちし)が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられています。

飫肥院とも呼ばれ、1458年に九州制覇を狙う薩摩の島津氏が勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、志布志城主の新納忠続(にいろただつぐ・島津一族)が命を受け飫肥城に入城しました。

1484年に日向中北部を支配した伊東氏が飫肥に侵攻して、当主の伊東祐国(いとうすけくに)が戦死すると、伊東氏の本格侵攻を恐れていた島津氏は、領土の割譲と飫肥城主交代によって急場を凌ぎました。

しかし、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も伊東氏による飫肥侵攻が続きました。1567年には、伊東義祐(祐国の孫)が念願をかなえ飫肥城を奪取して、その子の祐兵に飫肥の地を与えました。

1572年に伊東氏が木崎原の戦いによって衰退し始めると、島津氏の日向侵略が広まる事となって飫肥の地は、再び島津氏の支配となりました。

一時は飫肥を失ってしまった伊東祐兵(すけたか)でしたが、豊臣秀吉に仕えて九州平定に参加し、九州平定軍の先導役を務めた功績により1587年に再び飫肥の地を取り戻しました。大名としても復帰を成し遂げました。

以後の伊東氏は、関ヶ原の戦いで東軍側(徳川家康)として働き、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで一貫して飫肥の地を治めました。

飫肥城の縄張

丘陵に曲輪を幾つも並んだ群郭式の平山城です。大手門の両脇は空堀となっており、図面などを見るとこれが水堀のように描いてあります。

しかし、実際には空堀で、かつては水が入っていたとも思われます。深さは5m、幅7mほどと近世城郭にしては、それほど大きなものではありません。斜度が高い土塁が堀の両側に積まれています。

大手門の内部は、枡形になっていて、周囲には土塀がめぐらされています。枡形内部を攻撃する構えで、この枡形を上がって行くと正面に本丸の大きな石垣が見えてきます。

虎口の東側には塁の出張った部分があり、この虎口を進もうとする敵を背後から攻撃できます。
本丸の西側の石垣の間を進むと、松尾之丸の入口へと到達すると、本丸の西側には独立性の高い長軸100m程の急峻な台地が2つ並んでいます。

これが旧本丸と松尾之丸で、古い時代の飫肥城の中心をなす部分ですが、近世城郭としての使用にはかなり手狭で、近世ではほとんど使用されず藩の施設の大半は本丸にあったと言われています。

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飫肥杉をつかって大手門は、復元されました。

飫肥城の所在地

〒889-2535 宮崎県日南市飫肥10丁目1

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宮崎空港より約1時間
JR飫肥駅から徒歩15分、車で5分
宮崎自動車道 田野ICから約50分

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