岡山城(別名 烏城ーうじょうー)

平山城

岡山県にある日本の城です。別名は烏城(うじょう)又は金烏城(きんうじょう)と言います。日本100名城No.70(日本城郭協会)に選定された城です。どこから見ても同じように見える黒の美しい城をご覧ください。

岡山城(おかやまじょう)は

標高十数メートルの連なる丘の小高い土地に建設されました。当時の旭川河口は複数の脈川があり、その中の広大なデルタ地帯中央に「岡山」、その西隣に「石山」そして、その北西には「天神山」の3つの丘が連なっていました

その中の石山の丘に立っていた石山城に入城した宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設けて、石山城を取り込む形で城郭を建造してできたのが、この岡山城です。

岡山城の主な沿革

岡山城は、豊臣秀吉に身内並みに厚遇されていた宇喜多秀家が秀吉の指導のもとに築城し、8年の歳月をかけて1597年に完成させました。西向きの城構えのため、城の東背後を旭川が流れるように改修して、外堀に自然の川を活用しています。

この時代の城の特徴から天守閣の壁に黒漆塗りの下見板を取付けているので、外観が黒く後には「城(うじょう)」とも呼ばれるようになりました。秀家は、この城を単に戦の施設としてだけでなく、領内の商人や職人を集めることによって城下町に発展させました。

関ヶ原合戦で敗戦した秀家は、岡山城藩主であった期間より長い期間、流配先の八丈島での余生を過ごしたと言われています。秀家に代わって城主となったのが小早川秀秋です。

秀秋は、西側の外堀の外側に城を拡張して新たに外堀を設けました。、外堀の掘削を二十日間で行ったため、「二十日堀」と呼ばれていました。

秀秋は若くして亡くなったため、その後は幕藩体制の下で岡山城は岡山藩の城府となり、池田家が藩主として明治維新に至りました。明治時代に御殿や櫓、門のほとんどが取り壊され、堀も内堀の一部を除いてほとんど埋められています。

第二次大戦中、空襲で天守や石山門を焼失しました。現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後になって天守や不明門、廊下門、六十一雁木上門、塀の一部が再建されました。

現存している月見櫓と西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定されています。「岡山城跡」としても史跡にも指定されました。隣接する後楽園は、水戸の偕楽園や金沢の兼六園と共に日本三名園として有名です。岡山城をお訪ねの際は、川をはさんで後楽園がありますので、ぜひお立ち寄りください。

岡山城の縄張

岡山城は、基本的には梯郭式の縄張です。三段の城郭配置が西側の一方だけに広がっている平山城となっています。言いかえるならば、本丸の北から東には郭のない、非常に防備が薄い縄張と言えます。

そのために旭川の流れる方向を変え、天然の堀として東側の備えに利用されています。更に郭の代りとして、「後楽園」が築かれたと言われています。

天守は4重6階の複合式望楼型になっており、出入口は付属の塩蔵に設けられています。

その外観は黒漆塗の下見板が特徴的なので、その印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれており、「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれている姫路城と対比されることがあります。

元禄時代の古地図を見ると、五重の濠に囲まれた城郭と南北が3.5km、東西が1.3kmにおよぶ城下町の姿が伺えます。

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岡山城の所在地

〒700-0823 岡山県岡山市北区丸の内2-3-1

岡山城へのアクセス

飛行機:岡山空港から岡山駅までバスで約30分

バス:岡山駅から岡電バス「岡電高屋行き」、
   両備バス「東山経由西大寺行き」
   いずれも「県庁前」で下車、徒歩10分

路面電車:「岡山駅前」から「東山行き」に乗車、「城下」下車、徒歩10分

自動車:岡山ICから東に約20分

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