NHK大河ドラマ「どうする家康」でお馴染みの、徳川家康が誕生から6才まで、そして20代まで過ごした岡崎城です。
群雄割拠の戦国時代に家康の松平家そのと郎党たちは、今川家や織田家の隣国に苦しめられていました。
ご存じのとおり、少年期の家康も今川や織田の人質になっています。岡崎城は家康が戦国大名としての出発点の城と言えます。
家康の不屈の気概と力強い精神を生み出した岡崎城をご堪能ください。
岡崎城(おかざきじょう)は
愛知県岡崎市康生町にあった日本の城です。徳川家康の生地と言われる、別名を龍城と呼ばれています。
2006年には日本100名城45番に選定されました。
愛知県岡崎市康生町にあった日本の城です。徳川家康の生地と言われる、別名を龍城と呼ばれています。
戦国時代から安土桃山時代にかけて松平氏の持ち城でした。江戸時代には岡崎藩の藩庁があったところです。
岡崎城の主な沿革
岡崎城のはじまりは、15世紀前半です。三河国守護代のあった西郷頼嗣(よりつぐ)によって北方に対する砦として龍頭山(りゅうとうざん・静岡県1352m)に築城されました。
15世紀後半には、松平氏3代松平信光が西郷頼嗣を破り、西郷氏の娘婿の松平光重が城主となって岡崎松平家が成立しました。
1531年には岡崎松平家を破った松平清康(徳川家康の祖父)が城主となりました。
1535年、清康は尾張国の陣中で家臣の謀反により命を落とします。
その後、清康の子である広忠が跡を継ぎ、1542年には岡崎城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれています。
当時の城は、櫓や門の屋根も茅葺で石垣などはなく、ただ堀を掘ったその土をかきあげて、芝を植えただけの土塁で囲まれた城でした。
1549年、広忠の死後、岡崎城は今川家の支城として城代が置かれています。
その理由として、広忠の嫡男である竹千代(後の松平元康・徳川家康)が幼少で統治が不可能であったため、今川家が介入したと考えられています。
1560年、織田信長との桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、松平元康は岡崎城を取り戻して今川家から独立します。
1570年、徳川家康は本拠地を浜松城に移し、岡崎城には子の松平信康が入りますが、信康は謀反の疑いをかけられて自刃します。
以後、岡崎城は石川数正らが城代を務めました。
1590年には、豊臣秀吉の命により家康は関東に移封となり、豊臣秀吉の家臣の田中吉政が入ります。
家康の抑えの拠点の一つとなり、吉政は城を拡張して強固な石垣や城壁などが整備しました。
1602年に徳川氏重臣の本多康重が入城以降、徳川政権下では家康が誕生した城として重要視され、徳川譜代大名が城主を務めています。
岡崎城の縄張
この城は、梯郭式平山城です。天守の構造は、複合連結式望楼型3重3階です。
本丸の北方には持仏堂曲輪があり、その北方の下に二の丸、その北方に北曲輪がありました。
そして、二の丸の東側には、三ノ丸と東曲輪があり、その東に備前曲輪と大手門がある浄瑠璃曲輪、本丸と二の丸の西方下に坂谷曲輪がありました。
また、その西には白山曲輪と搦手口に当たる稗田門があった稗田曲輪があり、本丸の南は、菅生川に沿って菅生曲輪があり、それに加えて、本丸から北側へ6重、西側へ4重の外堀を張り廻らせていました。
存城した当時の東海地方の城においては、3番目に数えられる規模でありましたが、1873年の廃城令によって廃城となっています。
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岡崎城の所在地
〒444-0052 愛知県岡崎市康生町561−1
岡崎城へのアクセスはこちら
【電車・鉄道を利用】
名鉄名古屋本線「岡崎公園前駅」から 徒歩6分
愛知環状鉄道「中岡崎駅」から 徒歩7分
名鉄名古屋本線「東岡崎駅」から 徒歩12分
【路線バスを利用】
岡崎・安城線51「岡崎公園前バス停」から 徒歩3分
おかざきエクスプレス「図書館交流プラザバス停」から 徒歩4分
岡崎・安城線51「板屋町口バス停」から 徒歩5分
【高速道路ICを利用】
東名高速道路「岡崎IC」から 3.6km
伊勢湾岸自動車道「豊田東IC」から 8.2km
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