日本書紀や続日本記に登場する大野城です。現在は「四王寺県民の森」として整備され、現存する石垣や土塁を見ることができます。
大野城市の名称はこの大野城に由来していると言われており、大野市のPRキャラクタ-「大野ジョ-」は、石垣をモチ-フにしたリ-ゼントのご当地キャラです。
2006年には、日本100名城86番(日本城郭協会)に選定されました。
大野城(おおのじょう)は
飛鳥時代に大和朝廷によって築城され、我が国において最古の古代山城だと言われています。「白村江の戦い」で唐と新羅の連合軍に大敗した倭国(日本)が、防衛を目的として築いた城と考えられています。
大野城の主な沿革
日本書紀には、「・・・大野(おおの)と椽(き)、二城(ふたつのき)を築かしむ」と、続日本紀にも「大宰府をして大野、基肄(きい)、鞠智(くくち)の、三城を繕治せしむ」と記載されている城です。
大野城は、白村江の戦いで唐と新羅連合軍に大敗を喫した後に、大和朝廷が防衛のために築いた古代山城だと言われています。
665年に築城され、城郭建設は軍事技術の専門にしていた、憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)という亡命した百済人(朝鮮人)によって行われました。
天智政権は、白村江で敗戦した以降、唐や高句麗、新羅の戦いに加担せず、友好外交に徹して防衛体制を整えました。
また、大宰府都城の外郭は、険しい連山の地形と、それに連なる大野城、基肄城と平野部にあった水城大堤と小水城などで防備を固めました。
大野城の縄張
大野城は、大宰府政庁跡の北側背後にある、標高410mの四王寺山(大城山)に築城されました。山頂を中心にして馬蹄形状の尾根から谷を廻る土塁と石塁の外周城壁が築かれています。
その長さは、約6.8kmです。そして、南側と北側の土塁が二重となっており、城壁の総長は、8.4kmとなり、防備を固めています。
城域は、東西約1.5km×南北約3kmの、日本一の大規模な古代山城です。城門は太宰府口城門など9か所があります。
また、谷の部分では、浸透式の自然排水の百間石垣や水ノ手石垣などがあり、それに加えて水口のある屯水石垣などが確認されています。
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大野城の所在地
〒811 2105 福岡県糟屋郡宇美町四王寺字猫坂207
大野城へのアクセスはこちら
○西鉄太宰府線「太宰府」駅から徒歩50分
○JR鹿児島本線「南福岡」駅・西鉄天神大牟田線「雑餉隈」駅から西鉄バス「上宇美行き」で約20分「県民の森入口」下車、徒歩約50分
○JR山陽新幹線「博多」駅下車、博多バスターミナルから約45分「宇美町役場入口」で乗り換え約5分「県民の森入口」下車、徒歩約50分
○JR鹿児島本線「大野城」駅からコミュニティバス「大城ルート」で約20分「総合公園入口」下車、約70分
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