篠山城(ささやまじょう)

兵庫県

江戸幕府を開いた徳川家康が諸大名の力を削ぐため、築城などの土木工事を行わせた「天下普請」で造られた城の一つ、篠山城です。縄張は、築城の名人、藤堂高虎が担当しました。復元された大書院は見応えのある建物です。

篠山城(ささやまじょう)は

兵庫県丹波篠山市北新町にある日本の城跡で、篠山盆地の中央部、笹山とよばれる小丘陵に築かれた平山城です。国の史跡に指定されています。
財団法人日本城郭協会が選定した「日本100名城」にも選ばれています

篠山城の主な沿革

1609年(慶長14年)、徳川家康は、松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築くことを命じました。

これは、山陰道の要衝である丹波篠山(たんばささやま)盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名の抑え込むことが目的であったと言われています。


篠山盆地中心部の丘陵である笹山を築城の地と定め、藤堂高虎(とうどうたかとら)が縄張を担当しました。普請総奉行には池田輝政が務め、15か国20の大名の協力により天下普請によって6か月で完成しました。


1766年(明和3年)には、藩校「振徳堂」を建設されました。以後、松井松平家一代、藤井松平家二代、形原松平家五代、青山家六代の歴代篠山藩主を経て明治を迎えました。


1873年(明治6年) 城郭の建造物が取り壊され始めましたが、二の丸の大書院(おおしょいん)は取り壊しに多くの費用がかかるため保存されることになり、取り壊しを免れました。

篠山城の縄張

城には、内堀と外堀が有り、内堀内に本丸と二の丸を設けてあります。外堀の外周は1辺約400mのほぼ正方形になっています。東・北・南の門には馬出を設置して守りを固めていました。

二の丸を囲む土塀は所々、屏風折りに外側に突き出しており、狭間の死角を少なくする工夫がなされていました。築城当初より天守台はあるが天守は建設されませんでした。これは、石垣や堀をはじめとする城の造りが堅固すぎることを幕府が懸念したためであると伝えられています。

三の丸に上級武士を、外堀沿いに中級・下級武士を、外堀南に足軽長屋を、そして街道沿いに町や社寺が配置されていました。

篠山城の縄張

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篠山城の所在地

兵庫県丹波篠山市北新町2-3(大書院所在地)

篠山城への交通アクセス

西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線「篠山口駅」より、神姫グリーンバス(2番のりば・篠山営業所ゆき)で17分、二階町下車、南へ300m行くと、城の北側に市営駐車場あります。

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