鳥取城ー城郭の博物館ー

鳥取県

鳥取城は、羽柴秀吉による兵糧攻めの舞台となった城としてよく知られています。

江戸時代には鳥取藩主の池田氏によって近世の城郭として改修されました。

現在の城址には天守台の他石垣や堀が遺構として残っており、正面の入口には織田信長の家臣の秀吉に攻められた時、毛利方の城主であった吉川経家の像が建てられています。

また、2018年9月には擬宝珠橋(ぎぼしばし)が復元され、橋長約37mは国史跡の城郭の橋としては最長です。

大手門にあたる「中ノ御門表門」は2021年春に復元されています。

鳥取城(とっとりじょう)は

鳥取県の鳥取市に築かれた戦国時代から江戸時代かけて存在した日本の城です。

国の史跡に指定されており、別名を久松城(ひさまつのしろ)または久松山城(ひさまつやまのしろ)と言われています。

戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化が窺い知ることができることから「城郭の博物館」とも言われています。

織田信長の中国攻めにおいては、家臣・羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略した城としても有名です。

鳥取城の主な沿革

戦国時代中頃、山名誠通(因幡守護)が久松山の自然地形を利用して山城を築城したと言われてきましたが、最近では因幡山名氏と対立する但馬山名氏の付城として成立した可能性がつよいと言われています。

鳥取城の城主が正式に確認されたのは、武田高信の時代からです。

高信は、但馬山名氏の分家として、誠通の滅亡後に再興された因幡山名氏の家臣でしたが、次第に力をつけ、永禄年間には鳥取城を拠点としました。

湯所口の戦いの以降、高信は、守護家よりも優勢となり、ついには守護の山名豊数を攻撃して天神山城から鹿野城に逃亡させた上、目上の守護(山名豊弘)を擁立して下剋上を果たしました。

高信は、その後も豊数の弟の山名豊国としばしば対立して、安芸の毛利氏と通じるようになりました。

1573年、高信は尼子残党と手を結んだ山名豊国の攻撃を受け、和議を結んで城を明け渡しましたが、まもなく豊国の手によって殺されています。

その後因幡山名氏の本拠は鳥取城に移りましたが、吉川元春に攻められ豊国は降伏して毛利豊元が城主になりましたが、1574年に再び尼子氏残党に攻められて降伏しています。

1575年には毛利氏の力が鳥取に直接及ぶようになると、尼子残党は鳥取城を退いて豊国が城主となりました。

1580年に羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦の末、9月に豊国は和議によって信長へ降伏し臣従しています。

その後、毛利氏の来訪により再度の降伏して鳥取城主ではなくなりました。

1581年3月には毛利氏の重臣、吉川経家が城主になりました。

同年4月、織田氏への内通が毛利氏に発覚して、豊国は秀吉の下へ出奔しました。

中国地方の攻略を担当していた羽柴秀吉は2度目の鳥取城の攻撃をして攻略しました。

後に『鳥取城の渇え殺し』と言われる程、悲惨な兵糧攻めで有名です。

浅井氏の旧臣で秀吉の与力となった宮部継潤が城代として鳥取城に入り、織田勢の山陰攻略の拠点となりました。

豊臣政権に代わった1585年には、九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石が与えられ、鳥取城の城主となりました。

その後も豊臣家の五奉行として秀吉の与力として重要な役割を果たしています。

継潤の子・宮部長房が受け継ぎ、1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に従軍し敗れ、城代家老が守っていましたが、東軍に激しく攻められ、鳥取城は開城しています。

江戸時代に入り、関ヶ原の戦いの功により、池田長吉(池田氏)が6万石で入り、池田氏によって近世城郭に改修されました。

1617年には池田光政が32万5,000石で入府し、鳥取城も大きく規模が拡張されました。

その後、再び備前岡山藩に入った、池田長吉とは別系の池田光仲が入封して、そのまま12代続いて明治維新を迎えました。

城は、1873年の廃城令によって存城とされましたが、陸軍省の所管となり城は必要なしとの観点よりすべての建造物は払い下げられ、1877年から1879年にかけて中仕切門と扇御殿化粧の間を残して解体されました。

現在は天守台、石垣が残っており、国の史跡に指定されています。1993年、鳥取城正面入口に吉川経家の銅像が建立され、2006年に日本100名城63番に選定されました。

鳥取城の縄張

標高263メートルの久松山頂にある山上の丸を中心とした山城の部分、山麓にある、天球丸や二の丸、三の丸、右膳の丸などからなる梯郭式の城郭です。

さらに西坂や中坂、東坂などの尾根筋には、戦国期の遺構が数多く残されています。

山上の丸には、天守や車井戸、御旗櫓、着見櫓、多聞櫓などの建物がありました。

東方には、二の丸と三の丸と見られる2段の郭があります。

本丸西方の一段下には出丸があり、下段の御櫓の他に馬場も設けられていました。

天守は、山上の丸の北西隅に位置していました。

天守台は、南北10間(1820cm)5尺(152cm)×東西10間(1820cm)2尺(60.6cm)のほぼ正方形の、城内では最大の櫓台です。

2層天守の櫓台としては非常に大規模で、現存天守では犬山城天守とほぼ同じ大きさです。

巻石垣(天球丸)は、二の丸の一段上、平山城部の最高所にあります。

三階櫓、御風呂屋御門などの建物がありました。太鼓御門は三の丸正面入り口の門で枡形門です。

一の門は櫓門であり、櫓は24mに及ぶ城内最大級の櫓門でした。

中ノ御門表門は1621年に池田光政により創建されました。

慶長の大改築以後に大手門とされました。1875年に解体されましたが、2021年に江戸末期の姿に再建さています。

擬宝珠橋(ぎぼしばし)は、中の御門に向けてかけられていた橋で大手橋に当たります。

全長約36m・全幅約6m、鳥取城の大手橋として参勤交代の玄関になっていました。

数度の改修・架け替えを経て、1897年頃まで存続していたということです。

2018年に復元されました。

鳥取城は市街地を流れる袋川が防衛線の一つになっており、城側の土手には竹を植えて寄せ手の視界を遮る工夫がなされていました。

天球丸下の楯櫓の櫓台下部が宮部時代のものと考えられる野面積みの石垣が残っています。

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鳥取城の所在地

〒680-0011 鳥取県鳥取市東町1−220

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鉄道利用
JR山陰本線、鳥取駅下車、バス砂丘、湖山、賀露行き10分「西町」降車、徒歩5分。

マイカー利用
中国横断自動車道、鳥取ICから約15分(6.4km)。無料駐車場(10台)有り。

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